空蟬
裂かれる、までの憎しみもなく
ただ盛りの花を送るように
蟬の声の途切れを合図に
らくに剥がれていった、ひと夜だった
瞼の皮いちまいででも
夏の濃い闇から
隔たれていることに
身が救われた別れであり
そう信じなければ
幾度生まれ変わっても
分かつことのできぬ
ひとのかおりだった
はじめての逢引にまとった
肌身を
明けの重みにかるく脱ぎすて
空蟬
と呼ぶには
水を吸いすぎたレインコートが
まだ暗い歩道橋に浮かぶ
点滅し続ける信号を
永久に横切るわたしを
長いこと見送っていた
もうひとつの影絵もまた
朝霧で見えない
詩集『水版画』(2008年・ふらんす堂)より。
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