まだ寒い日のこと。
少しずつ春に向かっていくなかで、心に留めた断片がある。
小林秀雄のエッセー「言葉」の一節。
本居宣長の言葉(歌)への認識について、こう記されていた。
「自然の情は不安的な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている」。
このページを読みながら、悲しみ自体が切実なあまり「おのずから」言葉となる…そんな「動作としての言葉」について少し考えてみたい、と思っていた。
すると朝、まだ水の冷たい公園を過ぎるとき、今年はじめての、ウグイスの声を聞いた。
まだ立派なひと声になる手前の、少し恥ずかしそうな、赤ん坊の笑い声のようなやわらかい、春の震えだった。
「おのずから」の言葉とは、こういう響きに似ているのだろうか、とも受け取った。
季節の寄り道を楽しむようにこうした言葉の断片を集めているうちに、今年もあっという間に花の盛りになっているのかもしれない。
そしていつか、ページから顔を上げると、すべての花も終わって。それでもまだ手元に残る言葉について、また考えてみたい。© 2016 Un cahier 詩のノート。All rights reserved. 文章や写真の無断転載を禁じます。