2018年9月25日火曜日

『現代詩手帖』10月号 詩書月評

『現代詩手帖』10月号「詩書月評」で紹介した詩集は以下のとおりです。


和田まさ子『軸足をずらす』 (思潮社)
大木潤子『私の知らない歌』 (思潮社)
長嶋南子『家があった』 (空とぶキリン社)
小笠原鳥類『鳥類学フィールド・ノート』(七月堂)
森水陽一郎『月影という名の』 (思潮社)
青木由弥子『il』 (こんぺき出版)
北條裕子『補陀落まで』 (思潮社)
若尾儀武『枇杷の葉風土記』(書肆子午線)


どの詩集からも、それぞれの詩人独自の言語観や、言葉に対する懐疑を超えた信頼がひしひしと伝わってきます。


前作をどう超えるか、はどの詩人にとっても課題だと思うのですが、こんなふうに、いくつもの果敢な挑戦の実現を見ることができると、詩は面白いな、まだまだ可能性に満ちているなと思え、元気が湧いてきます。


この「詩書月評」も残りあと2回。
毎月、限られた時間のなかで、どう読み、どう向き合い、どう言葉にするか。
そこに課題はたくさんありますが、何よりも、詩集一冊一冊に、いま、出会えたことに感謝しつつ…。
















2018年9月10日月曜日

詩 「水の旅」

夏の終わりの雨が降りはじめた。
濡れた木々の匂いを吸い込むと、過去に歩いてきた街の雨の日や、霧で果てが見えない川岸の道などを思い出すことがある。


記憶のなかの雨や岸辺の水は、親しいようで、けれど見つめても、その雫に触れたとしても、不思議に遠い。


そんな水のそばを旅した詩を一篇、記してみます。
昨年刊行した詩集『あのとき冬の子どもたち』(七月堂)から。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



水の旅

 

兄妹のように水色の似たふたつの川
ローヌとソーヌの母音の響きを
船は下ってゆく

航路に寄り添う霧雨が
明けかかる視界に積もっては
すぐに消えてしまう朝
つかの間の
さざ波に
ひとは
何度 流してきたのだろう

どんなことをしても
決して叶えられなかった
願いを

手放すたびに
水際の足もとも薄れて

もう二度と会えないひとも
生まれてから一度もめぐり会えないひとも
同じ花の気配に変わる街まで
流れてゆくことを
旅、と呼ぶのなら

通りすがりの岸辺の
たとえば大聖堂や鳥の白さを
数えては
忘れるために
残りの時間はあればいい

兄妹のように水色の似た
川から川へ
行き先を失った時間は運ばれ
水際のわたしの姿も
霧雨に溶けだす前の
別れのあいさつも
はじめから存在しない

旅人の影の
かたちをした雨雲が
横切り
消えてゆくのを
映す水だけの
永遠










・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


現在、紀伊國屋書店新宿本店さんで、七月堂さんの詩集のミニフェアをされているようです。
お近くのかたはぜひ。
『あのとき冬の子どもたち』は七月堂さんのHPからも購入できます。
http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=anotokifuyunokodomotachi