2019年2月4日月曜日

詩 「春待ち」


春待ち



球根花が芽吹いた夜に
舟を出した
 
凍てついた窓という窓を開け
咲き始めたばかりの野水仙の
低地へ流れる花びらを明かりに
幼いアイリスが編む水門をくぐり
待ちわびた春の名を唱えながら
 
乳白の甘い闇が深まるほど
輝きを増す虫の目の星座
暖かく香りだす木々の血
生まれる前から見知っていた
花の霊たちが
夜の旅を見守らんと
わたしの小舟にそっと
寄り添ってくれる
 
(フフ、フローラ、フローラ…)
どこに着くのかぼんやりと
水に舵をあずけて眠りにつけば
いまだに夢に見るひと影が
紫水晶のように震えて待つ岸辺
魂の巡礼地に降り立つわたしの手足は
恐ろしいほど水の色に透き通る
アクアマリン
爪先まで染みついた愛しい影を
燃える薔薇水で洗い落とし
墨絵のような愛の記憶を
ひい、ふう、み、と摘みながら
花粉の風にすべて流し切ると
青い宝石の手足は使命を終え
水底にすっと溶けていった
 
地を歩く術をなくしたわたしは
夢の沼に棲みつく
ひとりのうつくしい水霊
今宵、愛した魂に会うために
小舟に乗り込むおんなたちを
春の香とともに迎えにいこう
 
目覚めるとヒヤシンスのだるい匂い
それは夢の野で決別したひとの
髪の、皮膚の湿り
春がひらくごとに
花の舟に運ばれて
血が引くように遠くなる
雪の逢瀬の
残り香
 











※詩集『水版画』(2008年、ふらんす堂)より