2018年12月22日土曜日

詩誌『森羅』

『森羅』は、池井昌樹さんと粕谷栄市さんが作られている同人誌。この最新号(14号)にゲストとして詩を寄せました。


池井さんも粕谷さんも、自分が本格的に詩を書こうとしたときにはすでに著名な詩人であり、それぞれに独自の詩法で素晴らしい作品を次々に書き続けていらっしゃる方なので、今回ご一緒するのは、ほんとうに緊張しました。


私は、詩を二篇書きましたが、
生と死の深淵に触れる幻想的な情景が独特の語りによって生々しく現れる、比類ない散文詩の書き手である粕谷さんへのリスペクトをこめて、一篇は散文詩に。
そして、もう一篇は、日本語の響きや韻律の特長を生かしながら、誰にでもわかる言葉で深い情感をもたらす行分け詩を実現されている池井さんに贈るように、行分け詩に。


一粒のルビーから焔の記憶が広がる散文詩「紅玉の」と、生まれる前の水辺の光景をなぞる行分け詩「舟のなかで」です。


『森羅』は、全ページが池井さんの手書き、製本もお手製という、これ自体がひとつの工芸品のような造りが注目を集め、「現代詩手帖」の詩誌月評や現代詩年鑑でも話題になり、新聞でも紹介されました。


ただ限定100部の非売品のため、読めるひとが限られているので、私の手元にある分を、東京の七月堂さんと、大阪の葉ね文庫さんにもお送りしました。
ご厚意により、そこで閲覧していただけます。
お近くの方はぜひ、手に取ってご覧いただけたらと思います。
お店に置いてくださる七月堂さんと葉ね文庫さんに、心より感謝いたします。










この二作を書いたことで、次の詩集のイメージが少しずつ膨らんでいます。
来年もまた好きな詩や小説を読みながら、次の詩集のために、詩を書きためてゆくつもりです。


2018年は、「現代詩手帖」で詩書月評を担当させていただいたこともあり、とても充実した一年になりました。


自分が納得できる作品を書く、という初心にかえりながら、言葉を杖にして、自分の奥に広がる世界を少しずつ開拓していきたいと思います。


このブログをお読みくださるみなさまも、温かな聖夜と、輝きに満ちた新年をお迎えください。











2018年11月29日木曜日

『現代詩手帖』12月号 詩書展望について

『現代詩手帖』での「詩書月評」。
無事に12月号にまでたどり着いた。


『現代詩手帖』12月号は、「現代詩年鑑2019」、
つまり一年間の詩書を振り返る号。


わたしも、「詩書月評」最終回の原稿、「詩書展望」に、「死者たちの彷徨から非在のユートピアへ」というタイトルをつけ、今年刊行された多くの詩集を読んでいて目についたことから語り始めることにした。


今回紹介した新しい詩集は以下のとおり。


水下暢也『忘失について』
佐々木貴子『嘘の天ぷら』
岩倉文也『傾いた夜空の下で』
櫻井周太『さよならを言う』
小松宏佳『どこにいても日が暮れる』
松岡政則『あるくことば』
タケイ・リエ『ルーネベリと雪』
谷川俊太郎『バウムクーヘン』
山本純子『きつねうどんをたべるとき』
松川紀代『夢の端っこ』
野木京子『クワカ ケルル』
時里二郎『名井島』


どう読まれるか、どう読ませるかという読み手に対する意識や、構成や言葉選びの必然性と精錬を感じさせる詩集、あるいは、詩の言葉の領域を広げる勇敢な試みである詩集、そして何よりも、みずみずしい詩情を持つ詩集を紹介できたと思う。


毎月、1、2冊は大きく扱おうと心掛けたため、紹介できる詩書の数は限られてしまったけれど、一年を通して、83冊の詩集について触れることができた。


詩集は、読む人のそのときの心情や情況や年齢によっても、印象や解釈が変わる。だからこそ、いつまでも読み終えることができない、魅力的な書物だと思う。
「詩書月評」で紹介した詩集も少し時間をおいて読み返したら、また新しい発見を与えてくれるはずだ。





詩集をお送りくださったみなさま、月評をお読みくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。
そして、一年間、温かく的確なご感想をくださり、校了までこまやかに導いてくださった『現代詩手帖』編集部のご担当の久保さん、藤井編集長、編集部のみなさまに、心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。





2018年10月26日金曜日

『現代詩手帖』11月号 詩書月評

『現代詩手帖』11月号「詩書月評」で紹介した詩書は以下の通りです。


中本道代『接吻』
高橋睦郎『つい昨日のこと 私のギリシア』
三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』
網谷厚子『水都』
日笠芙美子『夜を旅するもの』
北原千代『須賀敦子さんへ贈る花束』


中本さんの詩集は、萩原朔太郎賞を受賞されましたが、その御受賞第一作がこの11月号には掲載されています。
中本さんの作品は、言葉の身体が感受するものを、素早いやわな感情としては表現せず、自然な抑制のなかで精錬し、より鮮烈で硬質な結晶にまで高めている、という印象を受けます。


高橋睦郎さんの詩集は、やはり素晴らしく、詩を読む喜びを全身で受け取ることができます。








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さて、この月評も、残すは、年鑑の原稿のみ。
無事に終えられるよう、コツコツと読みたいと思います。





2018年9月25日火曜日

『現代詩手帖』10月号 詩書月評

『現代詩手帖』10月号「詩書月評」で紹介した詩集は以下のとおりです。


和田まさ子『軸足をずらす』 (思潮社)
大木潤子『私の知らない歌』 (思潮社)
長嶋南子『家があった』 (空とぶキリン社)
小笠原鳥類『鳥類学フィールド・ノート』(七月堂)
森水陽一郎『月影という名の』 (思潮社)
青木由弥子『il』 (こんぺき出版)
北條裕子『補陀落まで』 (思潮社)
若尾儀武『枇杷の葉風土記』(書肆子午線)


どの詩集からも、それぞれの詩人独自の言語観や、言葉に対する懐疑を超えた信頼がひしひしと伝わってきます。


前作をどう超えるか、はどの詩人にとっても課題だと思うのですが、こんなふうに、いくつもの果敢な挑戦の実現を見ることができると、詩は面白いな、まだまだ可能性に満ちているなと思え、元気が湧いてきます。


この「詩書月評」も残りあと2回。
毎月、限られた時間のなかで、どう読み、どう向き合い、どう言葉にするか。
そこに課題はたくさんありますが、何よりも、詩集一冊一冊に、いま、出会えたことに感謝しつつ…。
















2018年9月10日月曜日

詩 「水の旅」

夏の終わりの雨が降りはじめた。
濡れた木々の匂いを吸い込むと、過去に歩いてきた街の雨の日や、霧で果てが見えない川岸の道などを思い出すことがある。


記憶のなかの雨や岸辺の水は、親しいようで、けれど見つめても、その雫に触れたとしても、不思議に遠い。


そんな水のそばを旅した詩を一篇、記してみます。
昨年刊行した詩集『あのとき冬の子どもたち』(七月堂)から。
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水の旅

 

兄妹のように水色の似たふたつの川
ローヌとソーヌの母音の響きを
船は下ってゆく

航路に寄り添う霧雨が
明けかかる視界に積もっては
すぐに消えてしまう朝
つかの間の
さざ波に
ひとは
何度 流してきたのだろう

どんなことをしても
決して叶えられなかった
願いを

手放すたびに
水際の足もとも薄れて

もう二度と会えないひとも
生まれてから一度もめぐり会えないひとも
同じ花の気配に変わる街まで
流れてゆくことを
旅、と呼ぶのなら

通りすがりの岸辺の
たとえば大聖堂や鳥の白さを
数えては
忘れるために
残りの時間はあればいい

兄妹のように水色の似た
川から川へ
行き先を失った時間は運ばれ
水際のわたしの姿も
霧雨に溶けだす前の
別れのあいさつも
はじめから存在しない

旅人の影の
かたちをした雨雲が
横切り
消えてゆくのを
映す水だけの
永遠










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現在、紀伊國屋書店新宿本店さんで、七月堂さんの詩集のミニフェアをされているようです。
お近くのかたはぜひ。
『あのとき冬の子どもたち』は七月堂さんのHPからも購入できます。
http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=anotokifuyunokodomotachi

2018年8月25日土曜日

『現代詩手帖』9月号 詩書月評

『現代詩手帖』9月号、「詩書月評」で取り上げた詩集は下記のとおりです。


野村喜和夫『骨なしオデュッセイア』(幻戯書房)
倉石信乃『使い』(思潮社)
中尾太一『ナウシカアの花の色と、〇七年の風の束』(書肆子午線)
大橋政人『朝の言葉』(思潮社)
麻生直子『端境の海』(思潮社)
平岡敏夫『在りし日々の証に』(思潮社)
現代詩文庫『たかとう匡子詩集』(思潮社)


今月は、年代もさまざまな詩人たちの、それぞれの書法の必然性が痛いほどに伝わる詩集が揃いました。
野村喜和夫さんの一冊は「幻想小説あるいは長編散文詩」と帯に書かれていますが、そのどちらでもありどちらでもない、生きもののような言葉のうごめきとざわめきが魅力的で、書記行為の可能性を感じました。
なんといっても、物語としても面白い。


倉石信乃さんの詩集も迫力の一冊。発語の極限からの伝言といった趣。
触れると背筋が震える、氷のような、焔のような言語でしょうか。


中尾太一さんの詩集も語り続けてゆくことの痛みの手触り、眩さに打たれながら読みました。
個人的には、一番、親密さを感じた詩集です。

太平洋戦争の体験者である平岡さん、たかとうさんの詩集には、言葉の直接性、現在性を問いかけてくる粘り強さがあります。



ぜひ手に取っていただきたい詩集ばかりです。







2018年8月19日日曜日

詩のはじまり。そしてこれから…



幼い頃、ほんとうの言葉はどこにあるんだろう、とずっと思っていた。
人の話を聞いていても、自分で話していても、何も語られていないし、語ってもいないような違和感とさびしさを感じていた。


けれど、小学校4、5年生の頃だろうか、詩と呼ばれるものをはじめて意識した。
あれ、こんな言葉があるんだ、となぜか懐かしかった。
はじめて、ありきたりの言い回しではない、不思議な重さと感触のある言葉で話しかけられている、という気がした。
それらの言葉はたぶん、言葉というものが本来は疑わしい作り物でしかないことを自覚した詩人たちによる必死の仕事だったからこそ、日常の言葉にくたびれたわたしの気持ちにすっと入り込んできたのかもしれない。
自分の内側と外の世界の時計がやっと動き出した音をかすかに聞くことができた。
そのとき、詩と呼ばれるものに応答する言葉を自分でも探してみたい、と思い始めた。


それ以来、詩や文学と呼ばれる言葉に手を引かれて、比喩ではなく、ほんとうに手を引かれて生きてきたと思う。
こうした言葉に出会っていなかったら、わたしの内と外の時計はまだ止まったままだっただろう。


詩を書くとき、いつも思う。
過去のわたしのようなひとに、届きますように、と。
その方向は、これからもずっと変わらない。


そして、こうも思う。
わたしにほんとうの言葉の在り処を教えてくれた詩人たちにもし読まれたとしても、恥ずかしくないものを書きたい、と。
これはなかなか難しい願いかもしれないけれど。


詩を書き始めたとき、いつか、憧れの詩人の作品が載っている本に自分の作品も載せられたらいいな、とぼんやりと願っていた。
それは、ありがたいことに経験することができた。


今日は、長く憧れている詩人のおひとりから、ありがたいお誘いをいただいた。
御手紙を読んですぐには、お声をかけていただいたことが信じられなかった。


その詩人をがっかりさせない作品をこれから書きたいと思う。
そして、過去のわたしのような、どこかにいるはずの読者に向けて。


個人的な経験として、社会人になってからは、数万人に向けた広告や雑誌作りに関わってきた。だから、大勢の消費者を満足させるためには、時代に合った表現の分かりやすさや洗練、瞬発力も必要だと痛感している。
けれど詩を書くときには、どちらかといえば、こう感じる。自分の詩は、そうした瞬時に広く流通する言葉というよりは、ひとりの読み手のもとに長くとどまり、その人の空虚に寄り添う力のある言葉であってほしい、と。


そうした力のある言葉を捕まえるためには、つねに移ろいやすい感性と理性の波打ち際に立ち続けながら、ある一語の到来に目をこらし、耳を澄まさなくてはならないのかもしれない。
それはとても時間のかかる作業だろうから、ときには詩以前の即興的な言葉に「詩」というラベルを貼り付けて、人前にさらしてしまうかもしれない。
そんな失敗と後悔(=航海)を繰り返してもまだ、目をこらし、耳を澄ますしかないのだと思う。


詩の活動にはいろんなやり方があっていい。
言葉との付き合い方、作品の伝達の仕方は、詩人の数ほどある。
わたしはわたしらしく、自分にとってのほんとうの言葉を探し続けていけたらと、次の詩作を前にして確かめている。

2018年8月3日金曜日

それぞれの詩の時間に

最近、尊敬する詩人のお一人に、詩のなかの時間について尋ねた。
その詩人によれば、作品には現実の時間の流れに制約されない固有の時間があり、そこにはいくつもの時間の層を重ねたり、現実を大きく超えた神話的な時間さえも閉じ込めることができるのではないかと。


人間の精神の原型や普遍性にまで届く、現実に縛られない時間の世界を言葉でとらえるためには、ときには作品自体の時間が熟すのを待つことも必要だとも。
それは、作品内の時間が一つの街や城のように具体的な姿と香りを持って、自然とこちらに近づいてくるのを待つ、ということかもしれない。
客観的現実の時間のみを映した、単一的で即興的な言葉のスケッチではなく、細部まで念入りに編まれ、磨かれた多層的な言語の織物を実現されている詩人ならではのとらえ方は、素晴らしいと思う。


作品のなかの時間をどうとらえるかは、詩をどう書くかに結びついてくるので、わたしも詩を書くとき、日常の現実を超えた時間を詩のなかでどう流すか、どう重ねるかについてはよく考える。


わたしにとっての、理想的な詩の書き方の一つは、詩人にとって現実以上にリアルな内的な真実の時間を積み重ねることでもあるし、あるいは、日常のある光景から「永遠」の入り口を覗かせる時間の裂け目や結晶に出会うということかもしれない。


いつかいなくなる小さな存在として、例えば目の前の一瞬一瞬を見つめるとき、そこにある太陽や月の光や木々のそよぎ、石の眠り、街のざわめきは、かけがえのないうつくしさや愛おしさに満ちていると思う。
そうした光やざわめきのなかには、現実の時間を超える大きな時間の営みからの照り返しが、つまり永遠を感じさせるものがあるような気がする。
読んでくれたひとが、そんな「永遠」に触れられる詩を、いつか書けたらと思う。
単なる現実の体験の感想や、幻想のための幻想で終わらないように、言葉自体の時間に耳を澄ましながら。




写真は、以前訪れた南仏のシャンブル・ドット(日本でいうと民宿のようなものだろうか)での日暮れの一枚。
蝋燭を灯した夕食が始まるまで、そこで出会った異国の見知らぬひとたちと一緒に夕陽が落ちるのを眺めているうちに、温かな共有の時間の感覚が生まれていた。
ゆっくりと沈んでゆく夕陽に照らされたすべてがうつくしく、愛おしかった。
あのとき見た「永遠」は、今もわたしの心の底に沈んでいると思う。







2018年7月27日金曜日

『現代詩手帖』8月号 詩書月評

『現代詩手帖』8月号、「詩書月評」で紹介した詩集は以下のとおりです。


須賀敦子『主よ 一羽の鳩のために』 (河出書房新社)
川上亜紀『あなたとわたしと無数の人々』 (七月堂)
境節『空へ』 (思潮社)
岡島弘子『洋裁師の恋』(思潮社)
大崎清夏『新しい住みか』 (青土社)
西原真奈美『私の中の五線譜』 (私家)
井野口慧子『千の花びら』 (書肆山田)


今回大きく取り上げた須賀敦子さんの詩集は、一般の本好きたちにも読まれている話題書ですが、詩の書き手にとっても、この清潔な言葉から聞き取れる大切なものがあるのではと感じます。

そのほかの詩集も、それぞれに生の新しい論理や世界との接点を見出そうとしている切実さをしなやかさで超えてゆくような、重くて軽やかなものばかり。
ぜひお読みいただけたらと思っています。













2018年6月27日水曜日

『現代詩手帖』7月号 詩書月評

『現代詩手帖』7月号の詩書月評で紹介した詩集は以下のとおりです。


西元直子『くりかえしあらわれる火』
北爪満喜『水はわすれている そしておぼえている』
中村梨々『青挿し』
田中宏輔『Still Falls The Rain。』
中村稔『新輯・言葉について 50章』
金時鐘『祈り 金時鐘詩選集』


例えば、西元さんの「火」、北爪さんの「水」。
それぞれに選ばれた言葉の宿命が、美しく、力強く匂い立つ詩集たち。
ぜひお読みいただけたらと思います。






2018年5月25日金曜日

『現代詩手帖』6月号 詩書月評

少しずつ、空や土のうえに水の訪れを感じる季節になりました。


『現代詩手帖』の「詩書月評」も6回目。ちょうど一年の折り返し地点まで来ました。
今回、取り上げた詩集は以下のとおりです。


細田傳造『アジュモニの家』
西尾勝彦『歩きながらはじまること』
若松英輔『幸福論』
福田拓也『惑星のハウスダスト』
金川宏『揺れる水のカノン』
チラナン・ピットプリーチャー『消えてしまった葉』
ジャン=ミッシェル・モルポワ『イギリス風の朝(マチネ)』


円熟の、と呼びたいくらいの、
それぞれの言葉の到達点とこれから。



そして今回は、翻訳詩集も取り上げました。
ひとりはタイの、もうひとりはフランスの詩人の。
まったく違う世界を映す言葉ですが、
どちらからも、生きた詩論を体現している逞しさを感じました。


とくに、モルポワ氏の言葉は、個人的にとても惹かれる姿をしていて、
1999年に翻訳刊行された『青の物語』も何度も開きたくなる詩集です。
訳者の有働薫さんのお力が大きいのだと感じますが。


ご興味があれば、ぜひお読みいただきたい詩集ばかりです。













2018年5月7日月曜日

最初の場所に戻りながら

詩を書こうとして、書き方を忘れたように途方にくれてしまうことがある。
詩はつくづく、繰り返すことができない方法だと思う。
一度書いたようにまた書こうとしても、何かがずれてゆくし、
何かをよりどころにすることができない。


一回きりの方法をそのつど試してゆくしかない、と思う。
試したとしても、何かが足りないような気はいつもしていて、だからこそ、続けようと思えるのだろうけれど。


これまで詩集を三冊刊行したが、一冊目を超えるために二冊目を、二冊目を超えるために三冊目を、という書き方をしてきたというよりは、少しずつ方向をずらして書いてきた、という気がする。
だから、もしかすると、一冊目でできなかったことは、まだ実現できていないし、そこを継いで、深めてやってみるのも、面白いかもしれないな、とは思っている。
もちろん、まったく違うかたちで。
原点にときどき戻りながら、今度はどこを向いてみようか、と考える時間がとても楽しい。


詩は、書いていて安心する、ということがない。
だから、ほんとうに恐ろしいほどに可能性に満ちた方法だと思う。


一冊目の詩集『水版画』には、生まれた土地のイメージが色濃く表れていると思う。
平野の水田の水の鏡と、仰ぎ見る紫の山と。
こんな風景が。









2018年4月27日金曜日

『現代詩手帖』5月号 「詩書月評」

『現代詩手帖』5月号「詩書月評」で取り上げた詩書は以下の通りです。


池井昌樹『未知』
坂口簾『鈴と桔梗』
小島きみ子『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』
及川俊哉『えみしのくにがたり』
大島邦行『逆走する時間』
北川透『北川透 現代詩論集成3』


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どの詩書も、内容、言語の捉え方ともに刺激的で、ずしりとした重みを感じさせるものばかり。
とくに北川透氏の『現代詩論集成3』は、600ページ近い書籍ですが、
詩の書き手にとっては、発見と確認に満ちた一冊なので、ぜひ読んでいただきたいと思います。







2018年3月27日火曜日

『現代詩手帖』4月号 「詩書月評」

現代詩手帖4月号「詩書月評」で取り上げた詩集は、以下のとおりです。


福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(港の人)
松原立子『アルケースの話』(七月堂)
岩木誠一郎『余白の夜』(思潮社)
中野正裕・広瀬弓『虫数奇』(ふらんす堂)
藤山増昭『命の河』(編集工房ノア)
中村薺『かりがね点のある風景』(私家版)
中原秀雪『モダニズムの遠景 現代詩のルーツを探る』(思潮社)


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どの詩集も、読むひとを選ばない平明な表現で書かれていながらも、言葉の組み合わせから独自の豊かなイメージが生まれていて、読めば読むほど味わいが深まります。
毎号、私家版の詩集も取り上げていますが、佇まいはささやかでも、私家版だからこそ作者の思いが自由に表れている詩集もあるので、小さなものにも、これからも目を向けて行こうと思っています。
ご紹介した7冊、ぜひ手に取っていただきたいと思います。







2018年3月20日火曜日

暗闇の蝋燭として

第三詩集『あのとき冬の子どもたち』(七月堂)を刊行して一年が過ぎました。


この一年の間、多くのご感想や批評をちょうだいしたり、
「現代詩年鑑」のアンケートで書いていただいたりと。
ひとつひとつが忘れがたい大切な励ましとなり、
本当にありたがく、感謝しています。


そして、光栄なことに、さまざまな詩の賞の候補にも挙げていただきました。
それらの発表は終わっているので、ここに書かせていただくと・・・。


丸山薫賞、三好達治賞、高見順賞のそれぞれの候補に。
(現代詩花椿賞でも、選考委員の推薦詩集として挙げていただいたと七月堂さんから聞いています)


賞の候補として選んでいただいたこと自体もありがたいのですが、
何よりも、自分にとっては、詩作を始めたころからの憧れの詩人の方々に読んでいただけたことが、大きな励みになりました。


今日、選評の掲載誌が送られてきた、高見順賞に関しては、
学生のころから作品を愛読してきた堀江敏幸さんに、拙詩集について触れていただいた、ということが、とてもうれしい出来事でした。


堀江さんのエッセイや小説はもちろん、鮮やかな手仕事のような批評には、いつも魅了されています。
対象にじっくり、ゆっくりと息をひそめるように寄り添い、作品の輝きのもっとも澄む場所をとらえて、その光の頂から豊かな解釈の道程を描いてゆく。
作品への愛情に満ちた粘り強い接近の仕方や、独特な鋭さと繊細さが光る文章は、読書の真の快楽を開いてくれる魔法のようだな、といつも感じています。
そんなかたが自分の詩を読んでくださり、それについて書いてくださった。
そのことを、これからも何度も思い出したいと思います。


第48回高見順賞の堀江敏幸さんの選評から、拙詩集について書いてくださった部分を抜粋して、ここに記しておきます。詩作という未知の暗闇を進むための、いつまでも消えない蝋燭を、もうひとついただいたという気持ちで。
候補にご推薦くださった方々や、拙詩集をお読みいただいた方々に、心より感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。


いまは、毎日届けられるたくさんの詩集に向かうことを優先して、自分の詩作についても、少しずつ考えていきたいと思っています。
長めの散文詩にも挑戦したいし、これまでの書き方から離れてみたいな、など…。
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堀江敏幸さんの選評より。


「余白の扱いに散文の息をより強く感じさせたのが、峯澤典子さんの『あのとき冬の子どもたち』だった。清冽な言葉と息継ぎ。特別な匂い袋も、靴の底に忍ばせてある。いつでも取り出せるその匂いが、異郷への旅の記憶、過去の日々、父親らしき人の死、そして、下腹部につづいている鈍痛にさえ白い息として吹きかけられる。仄めかしを逃れて着実に重ねられていく言葉と言葉のあいだには、本当の意味での隙間がない。そこにあるのは稠密な余白だ……」





2018年2月25日日曜日

『現代詩手帖』3月号 「詩書月評」

『現代詩手帖』3月号の「詩書月評」 で取り上げた詩書は以下の通りです。


山内功一郎『沈黙と沈黙のあいだ ジェス、パーマー、ペトリンの世界へ』(思潮社)
浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』(弦書房)
福田拓也『倭人伝断片』(思潮社)
川上明日夫『白骨草』(編集工房ノア)
紺野とも『レトロスペクティブ』(私家)
宮尾節子『せっちゃんの家』(私家)


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山内功一郎さんの御著書『沈黙と沈黙のあいだ ジェス、パーマー、ペトリンの世界へ』は、さまざまな都市を舞台に、敬愛する詩人や画家たちとの対話を試みた、いわば詩的「トラベローグ」。


著者の芸術家たちに対する尊敬と愛や、貴重な対話の時間を通して創造の可能性を見出そうとする前向きな意思がどの章からも感じられて、読んでいる間ずっと、わくわくしていました。
読みやすい文章で、核心を伝える。
それは一見奇をてらわないことだけれど、そうした明晰で爽やかな仕事は、実は誰もができることではない。
そう実感させてくれる良書です。
ぜひ多くのかたに読んでいただきたい一冊。
ほかの詩集も、詩で表すことの意味を言葉自体が問うような刺激的なものばかりです。










2018年1月26日金曜日

『現代詩手帖』2月号「詩書月評」

『現代詩手帖』2018年2月号「詩書月評」で取り上げた詩集は以下の通りです。


小池昌代さん『野笑』(澪標)
カニエ・ナハさん『IC』(私家)
松本秀文さん『「猫」と云うトンネル』(思潮社)
岡田ユアンさん『水天のうつろい』(らんか社)
清水茂さん『一面の静寂』(舷燈社)
十田撓子さん『銘度利加』(思潮社)








どの詩集も書き方への意識の高さと新しい言葉への信頼が感じられる、生き生きとした詩集ばかり。ぜひ読んでほしいと思います。


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月評を始めてから、これまでよりも多くの詩集を読んでいますが、それぞれの詩集は、たぶん、詩人が絶対に譲れない書法で、時間をかけて作り上げたもの。
きっと取り換え不可能な固有の理由をもって生まれてきたのだろうと思います。


だからこそ、一冊ごとの生存の熱を感じとり、その詩の可能性を、あくまでも書評的な立ち位置から言葉にできたら・・・と願うばかりです。


限られた時間のなかで、どこまで実現できるかはわかりませんが、実際の原稿を仕上げる前の一冊の詩集との付き合いのなかで、自分の感覚と視野が開かれてゆく、その実感を身体に確かに毎月、毎月、刻んでゆきたいと思います。

2018年1月6日土曜日

『現代詩手帖』1月号 「詩書月評」

『現代詩手帖』2018年1月号の「詩書月評」で取り上げた詩書は以下の通り。


暁方ミセイ『魔法の丘』(思潮社)
マーサ・ナカムラ『狸の匣』(思潮社)
櫻井周太『明るい浜辺』(私家)
岩切正一郎『翼果のかたちをした希望について』(らんか社)
たかとう匡子『私の女性詩人ノートII』(思潮社)


どの詩集からも、それぞれの言葉の新しさと挑戦が伝わってきて、
読んでいると、こちらの感覚もみずみずしく息を吹き返すようだった。

多くの詩集を紹介できたらと思いつつも、
軽く触れて、次へ次へと急ぐのを許してくれない詩集ばかりだったので、
今回取り上げたのは5冊のみになってしまったのだけれど・・・。


これからも、どの詩集を取り上げるか、で、おおいに悩みながら、
時間が許す限り、一冊、一冊の声を聞き取れたら、と願っている。
焦らず急がず、今は目を凝らし、耳を澄まそう、と自分に言い聞かせながら・・・。