2018年8月25日土曜日

『現代詩手帖』9月号 詩書月評

『現代詩手帖』9月号、「詩書月評」で取り上げた詩集は下記のとおりです。


野村喜和夫『骨なしオデュッセイア』(幻戯書房)
倉石信乃『使い』(思潮社)
中尾太一『ナウシカアの花の色と、〇七年の風の束』(書肆子午線)
大橋政人『朝の言葉』(思潮社)
麻生直子『端境の海』(思潮社)
平岡敏夫『在りし日々の証に』(思潮社)
現代詩文庫『たかとう匡子詩集』(思潮社)


今月は、年代もさまざまな詩人たちの、それぞれの書法の必然性が痛いほどに伝わる詩集が揃いました。
野村喜和夫さんの一冊は「幻想小説あるいは長編散文詩」と帯に書かれていますが、そのどちらでもありどちらでもない、生きもののような言葉のうごめきとざわめきが魅力的で、書記行為の可能性を感じました。
なんといっても、物語としても面白い。


倉石信乃さんの詩集も迫力の一冊。発語の極限からの伝言といった趣。
触れると背筋が震える、氷のような、焔のような言語でしょうか。


中尾太一さんの詩集も語り続けてゆくことの痛みの手触り、眩さに打たれながら読みました。
個人的には、一番、親密さを感じた詩集です。

太平洋戦争の体験者である平岡さん、たかとうさんの詩集には、言葉の直接性、現在性を問いかけてくる粘り強さがあります。



ぜひ手に取っていただきたい詩集ばかりです。







2018年8月19日日曜日

詩のはじまり。そしてこれから…



幼い頃、ほんとうの言葉はどこにあるんだろう、とずっと思っていた。
人の話を聞いていても、自分で話していても、何も語られていないし、語ってもいないような違和感とさびしさを感じていた。


けれど、小学校4、5年生の頃だろうか、詩と呼ばれるものをはじめて意識した。
あれ、こんな言葉があるんだ、となぜか懐かしかった。
はじめて、ありきたりの言い回しではない、不思議な重さと感触のある言葉で話しかけられている、という気がした。
それらの言葉はたぶん、言葉というものが本来は疑わしい作り物でしかないことを自覚した詩人たちによる必死の仕事だったからこそ、日常の言葉にくたびれたわたしの気持ちにすっと入り込んできたのかもしれない。
自分の内側と外の世界の時計がやっと動き出した音をかすかに聞くことができた。
そのとき、詩と呼ばれるものに応答する言葉を自分でも探してみたい、と思い始めた。


それ以来、詩や文学と呼ばれる言葉に手を引かれて、比喩ではなく、ほんとうに手を引かれて生きてきたと思う。
こうした言葉に出会っていなかったら、わたしの内と外の時計はまだ止まったままだっただろう。


詩を書くとき、いつも思う。
過去のわたしのようなひとに、届きますように、と。
その方向は、これからもずっと変わらない。


そして、こうも思う。
わたしにほんとうの言葉の在り処を教えてくれた詩人たちにもし読まれたとしても、恥ずかしくないものを書きたい、と。
これはなかなか難しい願いかもしれないけれど。


詩を書き始めたとき、いつか、憧れの詩人の作品が載っている本に自分の作品も載せられたらいいな、とぼんやりと願っていた。
それは、ありがたいことに経験することができた。


今日は、長く憧れている詩人のおひとりから、ありがたいお誘いをいただいた。
御手紙を読んですぐには、お声をかけていただいたことが信じられなかった。


その詩人をがっかりさせない作品をこれから書きたいと思う。
そして、過去のわたしのような、どこかにいるはずの読者に向けて。


個人的な経験として、社会人になってからは、数万人に向けた広告や雑誌作りに関わってきた。だから、大勢の消費者を満足させるためには、時代に合った表現の分かりやすさや洗練、瞬発力も必要だと痛感している。
けれど詩を書くときには、どちらかといえば、こう感じる。自分の詩は、そうした瞬時に広く流通する言葉というよりは、ひとりの読み手のもとに長くとどまり、その人の空虚に寄り添う力のある言葉であってほしい、と。


そうした力のある言葉を捕まえるためには、つねに移ろいやすい感性と理性の波打ち際に立ち続けながら、ある一語の到来に目をこらし、耳を澄まさなくてはならないのかもしれない。
それはとても時間のかかる作業だろうから、ときには詩以前の即興的な言葉に「詩」というラベルを貼り付けて、人前にさらしてしまうかもしれない。
そんな失敗と後悔(=航海)を繰り返してもまだ、目をこらし、耳を澄ますしかないのだと思う。


詩の活動にはいろんなやり方があっていい。
言葉との付き合い方、作品の伝達の仕方は、詩人の数ほどある。
わたしはわたしらしく、自分にとってのほんとうの言葉を探し続けていけたらと、次の詩作を前にして確かめている。

2018年8月3日金曜日

それぞれの詩の時間に

最近、尊敬する詩人のお一人に、詩のなかの時間について尋ねた。
その詩人によれば、作品には現実の時間の流れに制約されない固有の時間があり、そこにはいくつもの時間の層を重ねたり、現実を大きく超えた神話的な時間さえも閉じ込めることができるのではないかと。


人間の精神の原型や普遍性にまで届く、現実に縛られない時間の世界を言葉でとらえるためには、ときには作品自体の時間が熟すのを待つことも必要だとも。
それは、作品内の時間が一つの街や城のように具体的な姿と香りを持って、自然とこちらに近づいてくるのを待つ、ということかもしれない。
客観的現実の時間のみを映した、単一的で即興的な言葉のスケッチではなく、細部まで念入りに編まれ、磨かれた多層的な言語の織物を実現されている詩人ならではのとらえ方は、素晴らしいと思う。


作品のなかの時間をどうとらえるかは、詩をどう書くかに結びついてくるので、わたしも詩を書くとき、日常の現実を超えた時間を詩のなかでどう流すか、どう重ねるかについてはよく考える。


わたしにとっての、理想的な詩の書き方の一つは、詩人にとって現実以上にリアルな内的な真実の時間を積み重ねることでもあるし、あるいは、日常のある光景から「永遠」の入り口を覗かせる時間の裂け目や結晶に出会うということかもしれない。


いつかいなくなる小さな存在として、例えば目の前の一瞬一瞬を見つめるとき、そこにある太陽や月の光や木々のそよぎ、石の眠り、街のざわめきは、かけがえのないうつくしさや愛おしさに満ちていると思う。
そうした光やざわめきのなかには、現実の時間を超える大きな時間の営みからの照り返しが、つまり永遠を感じさせるものがあるような気がする。
読んでくれたひとが、そんな「永遠」に触れられる詩を、いつか書けたらと思う。
単なる現実の体験の感想や、幻想のための幻想で終わらないように、言葉自体の時間に耳を澄ましながら。




写真は、以前訪れた南仏のシャンブル・ドット(日本でいうと民宿のようなものだろうか)での日暮れの一枚。
蝋燭を灯した夕食が始まるまで、そこで出会った異国の見知らぬひとたちと一緒に夕陽が落ちるのを眺めているうちに、温かな共有の時間の感覚が生まれていた。
ゆっくりと沈んでゆく夕陽に照らされたすべてがうつくしく、愛おしかった。
あのとき見た「永遠」は、今もわたしの心の底に沈んでいると思う。