2016年3月29日火曜日

詩 「一羽の」

 

一羽の


夜明け前の
階段の踊り場に
どこかの赤ん坊が落としたのか
あたたかそうな茶色の手袋が片方だけ
近づいてみると
それは一羽のすずめだった
日暮れに迷いこみ
窓に必死にぶつかったのかもしれない
ガラスには若い赤が混じった
雨粒の跡


ほかの部屋の物音はまだ聞こえてこない
ハンカチで包み
中庭の茂みのそばに運んだ
手を離すと
小雨の音がした


幼いころ
水さえほしがらなくなった猫や犬の
肌の日向の匂いが ゆっくり冷えてゆくのを
いちにちじゅうでも
ひとばんじゅうでも
見守った
あのやわらかい時間の流れから
いつ 離れてしまったのだろう


一羽 一匹 そして ひとりのひとの
消える前の
あるいは 消えたあとの
ほのかな体温を
包みつづけるてのひらも
埋めてしまえるからだの深さも
もう一生 もつことはなく
今朝も
始発のベルだけを待っている


あのとき 何に触れたのかを
何が
触れてきたのかを
死ぬまで思い出さないように









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春の言葉と



まだ寒い日のこと。
少しずつ春に向かっていくなかで、心に留めた断片がある。

小林秀雄のエッセー「言葉」の一節。
本居宣長の言葉(歌)への認識について、こう記されていた。

「自然の情は不安的な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている」。

このページを読みながら、悲しみ自体が切実なあまり「おのずから」言葉となるそんな「動作としての言葉」について少し考えてみたい、と思っていた。
すると朝、まだ水の冷たい公園を過ぎるとき、今年はじめての、ウグイスの声を聞いた。
まだ立派なひと声になる手前の、少し恥ずかしそうな、赤ん坊の笑い声のようなやわらかい、春の震えだった。
「おのずから」の言葉とは、こういう響きに似ているのだろうか、とも受け取った。

季節の寄り道を楽しむようにこうした言葉の断片を集めているうちに、今年もあっという間に花の盛りになっているのかもしれない。
そしていつか、ページから顔を上げると、すべての花も終わって。それでもまだ手元に残る言葉について、また考えてみたい。


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2016年3月27日日曜日

詩 「校庭」



校庭

誰もが教室にいる時間
校庭を見ていた
耳を澄ますと遠い水平線から汽笛が届いたこと
野良犬が通り雨とともに走り去ったこと
いつも早退してしまう子がいたこと

かすり傷、くらいの深さで
誰かとかかわりあうすべもなく
ひとりだけの
ちいさなまばたきは
積もらなかった雪のように
家に帰るとひとつも残らず
見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった
それでも
次の日もまた
始業のチャイムのあと
校庭を見つめていた

ひとも 風も 雲も
止まれずに ひたすら駆けてゆく
それをまばゆさ、と呼ぶことや
目のとじかたさえも
まだ知らなかったころ



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une lettre 一通の、詩。no.3



あめ、ゆき、


時間をかけて駅までの坂をおりてゆく
町のはずれで 雪は
産湯に広げられたガーゼのように
降りはじめた

聞こえない耳に話しかけ
見えないはずの目を覗き
痩せた手をひく
そのために雪はあかるいのだと
知っていたから
子は
尿の匂いがする列車の座席に
眠れないひとを寝かせ
ゆき、と 手のひらに
言葉をもういちど教えた

あげられるものは もう骨しかなかった
それでも父は
あめ、ゆき、と
くちをひらきつづけた
ぎこちなく子を寝かしつけた若い日のように

何度か 子が弁当を届けた
工場のあかりは消えていた
弁当を分けあった川原も
雪で見えない
見慣れた鉄塔や山が後ろに流れ
あめ、ゆき、の声はしだいに弱くなった

いちめんのあかるさのなか
子が目をとじると
膝のうえに
小さな包みだけが残った

それは弁当箱にも骨壺にも見えた

子もまた
いちめんのあかるさのなか
小さな包みになるために生まれ
老いていた

父を呼ぶことのなかった町に列車が入った
雪はやみ
子は
静かな包みにくるまり
ひとり 眠った

 

une lettre 一通の、詩」no.3(2015911日発行)より。
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