2016年5月26日木曜日

気ぬけごはん



まず、気ぬけ、という言葉がいい。
朝起きて、出かけるための服を手にとったときに、ゆび先から頬まで無意識にさっと伝わるかすかな緊張。そんなものは、今日ぐらいは遠くにおいておけばいいよ、と言われているような気になる。
パジャマで歯を磨きながら、冷蔵庫にあるものをちょっと思い浮かべ、さっと作れるものを思うだけでわくわくするような、気持ちが自然と上を向く気楽さと、少しの高揚感。

高山なおみ『気ぬけごはん』(暮しの手帖社)。
「わざと手をかけないくらいの方が、素材がいきいきしておいしくできることもあるし、がんばらないごはんが、食べる人の心をほぐすことだってある」。
「気をぬくことで、たっぷりとした、目に見えない何かが感じられるからだと思う」という序文どおりの、気をぬいた、けれど食べたらきっと無理のないおいしさで、味わう間も、食べ終わったあとも、どこまでも広がる空を見通せるだけの澄んだ気持ちが続くんだろうな、と思えるレシピが並んでいる。

のんびり過ごしたい一日でもこれなら作れる、と思える、潔い手順。けれどその潔さを支える素材への目のかけ方が温かくて、その温かさゆえに、ますます作ってみたくなる。

たとえば、やわらかく煮たかぶにコーンクリームスープの素を合わせたポタージュや、野菜と肉の大きなかたまりをストーブのうえでゆっくり煮込んだポトフと、その残りで作るクリームシチューや、そのまた残りから生まれた里芋ときのこの田舎汁など、鍋のなかでだんだんとかたちをなくしてゆくものたちを想像するだけで、日常の緊張がほどけるような安心感がある。

気ぬけごはんの手順を頭のなかで追ってゆくと、自然とくつろいでしまう。この本には、ほかにも楽しみがある。
高山さんが「山の家」と呼ぶ、ある里山にある古い家を自分たちの手でひとが住める状態に変えてゆく作業の様子を知るのが面白い。どんなふうに、山の家や周りの自然になじんでゆくのか。その工程には、読んでいるこちらにもじわじわと栄養が行き渡るような明るさがある。

「畳はグズグズにくずれ」「床が傾いて障子も満足に閉まらない、お化屋敷みたい」な家屋の玄関先にある昔ながらのタイル張りの流し。そこをはじめて掃除しようとする著者は「クモの巣を払い、掃除機をかけ、砂埃であっという間に真っ黒になる雑巾に汚れがつかなくなるまで、何度でもくり返しふいて」ゆく。
「バケツの水をとり替えにいっては、冷たい水で顔を洗い、ごくごくと水を飲み干しながら」、だ。

頭の上には青空。そして「設備も道具も満足にないけれど、こうして体を動かしさえすれば、雑巾ひとつでどんどんきれいになってゆくのが爽快で、不便なのになんて自由なのだろう」という。この文章を味わったとき、身ひとつ、という言葉が浮かんだ。

こんなふうに、不便なのに自由な、身ひとつの喜び。
著者が眺めていた青空の青が、こちらにまで流れ込んできたように、その爽快さにはっとした。
こういう爽やかさが「気ぬけごはん」の周辺にはいつも流れている。身体にすっとなじむのに、どこか新鮮な爽やかさだ。

日常のなかで多くを拒否したり、ときには過剰に求めたりということがあったとき、この本を開きたくなるのは、食べ飽きないごはんのように、肩の力をぬいた、けれど絶妙なさじ加減の文章のせいかもしれない。

この場所から流れてくるおいしそうなご飯の匂いに、ときどき、はっと気づけたらいいなと思っている。


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2016年3月29日火曜日

詩 「一羽の」

 

一羽の


夜明け前の
階段の踊り場に
どこかの赤ん坊が落としたのか
あたたかそうな茶色の手袋が片方だけ
近づいてみると
それは一羽のすずめだった
日暮れに迷いこみ
窓に必死にぶつかったのかもしれない
ガラスには若い赤が混じった
雨粒の跡


ほかの部屋の物音はまだ聞こえてこない
ハンカチで包み
中庭の茂みのそばに運んだ
手を離すと
小雨の音がした


幼いころ
水さえほしがらなくなった猫や犬の
肌の日向の匂いが ゆっくり冷えてゆくのを
いちにちじゅうでも
ひとばんじゅうでも
見守った
あのやわらかい時間の流れから
いつ 離れてしまったのだろう


一羽 一匹 そして ひとりのひとの
消える前の
あるいは 消えたあとの
ほのかな体温を
包みつづけるてのひらも
埋めてしまえるからだの深さも
もう一生 もつことはなく
今朝も
始発のベルだけを待っている


あのとき 何に触れたのかを
何が
触れてきたのかを
死ぬまで思い出さないように









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春の言葉と



まだ寒い日のこと。
少しずつ春に向かっていくなかで、心に留めた断片がある。

小林秀雄のエッセー「言葉」の一節。
本居宣長の言葉(歌)への認識について、こう記されていた。

「自然の情は不安的な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている」。

このページを読みながら、悲しみ自体が切実なあまり「おのずから」言葉となるそんな「動作としての言葉」について少し考えてみたい、と思っていた。
すると朝、まだ水の冷たい公園を過ぎるとき、今年はじめての、ウグイスの声を聞いた。
まだ立派なひと声になる手前の、少し恥ずかしそうな、赤ん坊の笑い声のようなやわらかい、春の震えだった。
「おのずから」の言葉とは、こういう響きに似ているのだろうか、とも受け取った。

季節の寄り道を楽しむようにこうした言葉の断片を集めているうちに、今年もあっという間に花の盛りになっているのかもしれない。
そしていつか、ページから顔を上げると、すべての花も終わって。それでもまだ手元に残る言葉について、また考えてみたい。


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2016年3月27日日曜日

詩 「校庭」



校庭

誰もが教室にいる時間
校庭を見ていた
耳を澄ますと遠い水平線から汽笛が届いたこと
野良犬が通り雨とともに走り去ったこと
いつも早退してしまう子がいたこと

かすり傷、くらいの深さで
誰かとかかわりあうすべもなく
ひとりだけの
ちいさなまばたきは
積もらなかった雪のように
家に帰るとひとつも残らず
見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった
それでも
次の日もまた
始業のチャイムのあと
校庭を見つめていた

ひとも 風も 雲も
止まれずに ひたすら駆けてゆく
それをまばゆさ、と呼ぶことや
目のとじかたさえも
まだ知らなかったころ



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