2018年8月3日金曜日

それぞれの詩の時間に

最近、尊敬する詩人のお一人に、詩のなかの時間について尋ねた。
その詩人によれば、作品には現実の時間の流れに制約されない固有の時間があり、そこにはいくつもの時間の層を重ねたり、現実を大きく超えた神話的な時間さえも閉じ込めることができるのではないかと。


人間の精神の原型や普遍性にまで届く、現実に縛られない時間の世界を言葉でとらえるためには、ときには作品自体の時間が熟すのを待つことも必要だとも。
それは、作品内の時間が一つの街や城のように具体的な姿と香りを持って、自然とこちらに近づいてくるのを待つ、ということかもしれない。
客観的現実の時間のみを映した、単一的で即興的な言葉のスケッチではなく、細部まで念入りに編まれ、磨かれた多層的な言語の織物を実現されている詩人ならではのとらえ方は、素晴らしいと思う。


作品のなかの時間をどうとらえるかは、詩をどう書くかに結びついてくるので、わたしも詩を書くとき、日常の現実を超えた時間を詩のなかでどう流すか、どう重ねるかについてはよく考える。


わたしにとっての、理想的な詩の書き方の一つは、詩人にとって現実以上にリアルな内的な真実の時間を積み重ねることでもあるし、あるいは、日常のある光景から「永遠」の入り口を覗かせる時間の裂け目や結晶に出会うということかもしれない。


いつかいなくなる小さな存在として、例えば目の前の一瞬一瞬を見つめるとき、そこにある太陽や月の光や木々のそよぎ、石の眠り、街のざわめきは、かけがえのないうつくしさや愛おしさに満ちていると思う。
そうした光やざわめきのなかには、現実の時間を超える大きな時間の営みからの照り返しが、つまり永遠を感じさせるものがあるような気がする。
読んでくれたひとが、そんな「永遠」に触れられる詩を、いつか書けたらと思う。
単なる現実の体験の感想や、幻想のための幻想で終わらないように、言葉自体の時間に耳を澄ましながら。




写真は、以前訪れた南仏のシャンブル・ドット(日本でいうと民宿のようなものだろうか)での日暮れの一枚。
蝋燭を灯した夕食が始まるまで、そこで出会った異国の見知らぬひとたちと一緒に夕陽が落ちるのを眺めているうちに、温かな共有の時間の感覚が生まれていた。
ゆっくりと沈んでゆく夕陽に照らされたすべてがうつくしく、愛おしかった。
あのとき見た「永遠」は、今もわたしの心の底に沈んでいると思う。