2018年8月19日日曜日

詩のはじまり。そしてこれから…



幼い頃、ほんとうの言葉はどこにあるんだろう、とずっと思っていた。
人の話を聞いていても、自分で話していても、何も語られていないし、語ってもいないような違和感とさびしさを感じていた。


けれど、小学校4、5年生の頃だろうか、詩と呼ばれるものをはじめて意識した。
あれ、こんな言葉があるんだ、となぜか懐かしかった。
はじめて、ありきたりの言い回しではない、不思議な重さと感触のある言葉で話しかけられている、という気がした。
それらの言葉はたぶん、言葉というものが本来は疑わしい作り物でしかないことを自覚した詩人たちによる必死の仕事だったからこそ、日常の言葉にくたびれたわたしの気持ちにすっと入り込んできたのかもしれない。
自分の内側と外の世界の時計がやっと動き出した音をかすかに聞くことができた。
そのとき、詩と呼ばれるものに応答する言葉を自分でも探してみたい、と思い始めた。


それ以来、詩や文学と呼ばれる言葉に手を引かれて、比喩ではなく、ほんとうに手を引かれて生きてきたと思う。
こうした言葉に出会っていなかったら、わたしの内と外の時計はまだ止まったままだっただろう。


詩を書くとき、いつも思う。
過去のわたしのようなひとに、届きますように、と。
その方向は、これからもずっと変わらない。


そして、こうも思う。
わたしにほんとうの言葉の在り処を教えてくれた詩人たちにもし読まれたとしても、恥ずかしくないものを書きたい、と。
これはなかなか難しい願いかもしれないけれど。


詩を書き始めたとき、いつか、憧れの詩人の作品が載っている本に自分の作品も載せられたらいいな、とぼんやりと願っていた。
それは、ありがたいことに経験することができた。


今日は、長く憧れている詩人のおひとりから、ありがたいお誘いをいただいた。
御手紙を読んですぐには、お声をかけていただいたことが信じられなかった。


その詩人をがっかりさせない作品をこれから書きたいと思う。
そして、過去のわたしのような、どこかにいるはずの読者に向けて。


個人的な経験として、社会人になってからは、数万人に向けた広告や雑誌作りに関わってきた。だから、大勢の消費者を満足させるためには、時代に合った表現の分かりやすさや洗練、瞬発力も必要だと痛感している。
けれど詩を書くときには、どちらかといえば、こう感じる。自分の詩は、そうした瞬時に広く流通する言葉というよりは、ひとりの読み手のもとに長くとどまり、その人の空虚に寄り添う力のある言葉であってほしい、と。


そうした力のある言葉を捕まえるためには、つねに移ろいやすい感性と理性の波打ち際に立ち続けながら、ある一語の到来に目をこらし、耳を澄まさなくてはならないのかもしれない。
それはとても時間のかかる作業だろうから、ときには詩以前の即興的な言葉に「詩」というラベルを貼り付けて、人前にさらしてしまうかもしれない。
そんな失敗と後悔(=航海)を繰り返してもまだ、目をこらし、耳を澄ますしかないのだと思う。


詩の活動にはいろんなやり方があっていい。
言葉との付き合い方、作品の伝達の仕方は、詩人の数ほどある。
わたしはわたしらしく、自分にとってのほんとうの言葉を探し続けていけたらと、次の詩作を前にして確かめている。